2005年10月30日 (日)

学生時代

 左京区松ヶ崎は、鴨川の上流 出町柳(でまちやなぎ)で川が二股に分かれ (というよりもふたつの川が合流して 鴨川となるのですが) そのひとつ 高野川の西岸に広がる畑や田んぼの多い平地でした。北に小高い”松ヶ崎山”を臨み、山というより丘ですが ここは京都五山のひとつで 大文字の送り火の日 「妙法」という字が 点されます。hou2002 ところで鴨川は分かれて、東が高野川、西は かもがわ ですが、加茂川と字を変えるのをご存知でしたか?ついでに 下鴨神社、上加茂神社と書きます。
 下鴨神社の北東 下鴨高木町に 【すずきや】と言う屋号のおでんやがありました。店主の”おじぃ”は当時 80歳くらいだったでしょうか、とくに旨くはないのですが おでん一個40円から、日本酒1合180円という値段につられ よく通ったものです。この店の客には近所の学生や労働者風のおじさんが多く、背広を着たような人はほとんど見かけませんでしたね。このあたりには 我が大学をはじめ、京大 ノートルダム女学院 府立大学 同志社 立命 精華女子大などがあり、学生の町でした。
 名前が今思い出せないのですが、府立大の弓道部にいた同級生の女の子を時々【すずきや】で見かけました。その店で飲んでいると 隣の席のおじさんに度々声を掛けられ、話し相手をしていました。「兄ちゃん、どこの学生や?」「はい、そこの工繊大です。」「そうか、わしゃこう見えても 京大出とんねん」と、見るからに労働者風のおやじ、「そうですか、すごいなぁ僕とはレベルが違うわ」「んん、兄ちゃん ま一杯飲めや」「おおきに いただきまぁす」・・・と、こんな感じでよくごちそうになってました。そんなこんなをいつも見ていた店のおじぃが ある雨の他に誰も客のいない晩、「やそいちくん、あんた水商売やりはったらエエデ、絶対成功するさかいに」と 悪魔のささやきを僕にくれてよこしたのでした。               続く

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2005年10月29日 (土)

やそいち 我が半生

 風邪 なんとか治りました。やはりなんですか、なかなか治らないですね 2週間かかりましたよ。女房のブログ、見てくれてる人もあるようで ありがとうございます。よろしければ そちらにもコメントいれてやって下さい。うっちぃのもよく見ているのですが、カメラの知識がない小生にはなかなかコメントしづらく・・・すまん、うっちぃ!
 またまた、ネタが尽きてききましてどうしようか困ってます。そこで、まぁ 私のここまでの歩みというか、半生をぼちぼち綴ってみようかと。
 1977年にみなさんとともに高校を卒業して、京都工芸繊維大学繊維化学科に入学しました。この大学は後に ノーベル化学賞を取られた福井謙一先生が学長を努められました。って、私とは全くの無関係ですが・・・。入学当時、大分県の学生寮が鞍馬寺に近い ”二の瀬”という所にあり、そこで学生生活を始めました。そこには高校の同級生や先輩も沢山おり、M宅君とは同部屋で約1年半 彼の寝言と付き合いましたよ。豪華弁当のS入君や、野球部K毛君なんかもいましたね。京大をはじめ、立命 同志社 京産大などなどいろんな大学の人がいて けっこうおもろいとこでした。秋に催される寮祭にフライトアテンダントになったM代さんに来てもらったの、覚えてます。同じ京都市内とはいえ、かなりの町外れにある寮まで・・・ほんと いまさらながらゴメン。でも、ちょうど今頃は一足早く紅葉が綺麗で、近くに流れる川からは かじか蛙の良い泣き声が聞こえる素晴らしいとこだったなぁ。
 しかし、山奥にあったこの寮は生活するに ちと不便で2年の秋にそこを出て大学のそばでアパート暮らしを始めました。1年の時から始めた喫茶店のバイト、店はアパートのすぐそばで結局卒業するまでそこにお世話になりました。以来 約30年包丁を握るきっかけとなったのが 「喫茶ミコノス」だったのです。     続く

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